商品先物取引の基礎知識先 物 新 報

先 物 新 報

商品先物業界の専門紙記者が、業界ニュースを中心に関連情報をお届けします。
TOP > 商品先物取引の基礎知識

商品先物業界戦後史(2)~昭和42年の法改正

急成長の歪みで委託者トラブルが急増

第二次世界大戦後の商品取引業界の前半は、商品外務員制度の導入(27.4.12)を契機に農産物、特に小豆を中心に拡大してきた。それは当時の小豆相場が国内、特に北海道産小豆の育成期に係る天候次第で高下したので、素人にも分かりやすく、かつその生産・流通量と投機資金のバランスからも、当時最も投資妙味が大きかったので、小豆相場に人気が集中し、「赤いダイヤ」と異名をとるほどに成長した。

このため、特に全国20商品取引所のうち6つが穀物取引所と最大勢力を有し、かつ分散的に存在する関係商品仲買人が横の連絡調整機関を必要とするようになり、昭和29年5月、全国穀取仲買人協会連合会(穀仲連)を結成した。

昭和30年代に入ると高度成長の波に乗って、その規模は急速に拡大し始める。27年に営業所298カ所、登録外務員281名だったものが、32年には1025カ所、2223人と営業所が1000を突破し、38年には3166カ所、1万2287人と外務員数が1万人を超えた。翌39年は3866カ所、1万9206人と営業所数がピークに達し、40年には3643カ所、2万822人と外務員が2万人の大台に乗った。

これらはいずれも延べ数であるが、営業所数では「凍結宣言(後述)」が行われた39年のピーク時に比べ、対30年比で10倍以上の伸びを見せ、商品外務員数では実数でもほぼ20倍の伸長率と予想される。こうした拡大は受託業務を専業とする、いわゆる専業型商品仲買人(以下専業仲買人)の成長によるもので、受託業務を専業とする経営形態が必然的に志向する経営の効率化に根差すものである。

専業仲買人の成長は、市場に流動性を与え、枯死寸前にあった各地の市場を蘇生させ、商品取引所の本来の機能を有効に発揮せしめるのに大いに貢献した。しかし一方で、取引所取引(先物取引)の大衆化による歪み(トラブルの急増)をもたらした。

このため農林省では昭和35年3月、いち早く穀物取引所の仲買人について
・従たる営業所の登録制の実施
・当時流行していた請負特約店の登録拒否

等を関係取引所に通達し、規制を開始した。しかし勢いを増して拡大する専業仲買人のエネルギーに抗しきれず、39年10月30日の農林省経済局長による「凍結宣言」が通達された。これは
・営業所の新設及び外務員の新規登録の停止
・受託数量の制限

といった「業界の不拡大政策」が盛り込まれたもの。
こうした事態が発展し、42年7月公布の「委託者保護を中心とする商品取引所法の大幅改正」へと繋がっていった。
それはちょうど日本経済が転換調整期(37年)を迎え、第1期高度成長に終わりを告げて40年不況へ突入していったのと軌を一にしている。

【42年法改正の理由】 第55国会衆議院商工委員会議事録「法律案の提案理由」より

商品取引所における売買取引の実態は、近年多数の大衆が商品取引に参加するようになったことに伴い数年前に比べ相当の変化を来たしております。全国20の商品取引所の総出来高が増加の一途をたどっていることもその一つでありますが、最近の事態で特に憂慮すべき点は、売買取引を委託する者とその委託を受ける商品仲買人との間の紛議が頻発し、さらに商品仲買人の倒産等により委託者が不測の損害をこうむる事態が増大していることであります。このような事態が生じた原因としては、現在320にのぼる商品仲買人の中には、資力に乏しく、あるいはその資質に欠け、大衆に対して下等な勧誘を行う一方、委託者からの取引の担保として預かった委託証拠金を不当に流用する等によって放漫な経営を行っている者もなしとしないことによるものと考えられます。これに対して、現行の商品取引所法は、商品仲買人に対し登録制をとっているものをはじめとして、かかる事態を改善するためには必ずしも十分でないのが実情であり、委託者保護の強化をはかる方向で法律改正を行うことが必要と判断されたため、政府といたしましては、商品取引所審議会を中心として、鋭意その方策を検討してまいった次第であります。この法律案は、このような経緯のもとに、大衆参加に伴う弊害の防止、特に委託者の保護を強化するための措置として取りまとめたものであり、昨年(41年)11月24日の商品取引所審議会の答申の趣旨に沿ったものであります。

昭和42年の商品取引所法改正要点

国会議事録(上記)にみるとおり「大衆参加に伴う弊害防止と委託者保護の強化」を狙いとして、附帯決議つきで、おおむね次の諸点について改正された。

(1)商品仲買人の資格を登録制から許可制に切り替え名称を商品仲買人から商品取引員に変更
(2)商品取引員の純資産額の引き上げ及び2以上の商品市場加入商品取引員の純資産の合算制の採用
(3)従たる営業所の新設・移転等を登録制から許可制へ変更
(4)不当な勧誘行為の禁止
(5)不都合行為登録外務員の勧誘活動の停止及び登録抹消等規制の強化
(6)委託証拠金の基本料率の告示
(7)委託者債権保護のための受託業務保証金(通称「分離保管」)制度の確立
(8)小口落し制度の廃止
(9)商品取引所理事長の権限強化及び公益理事制度の導入
(10)商品取引所の業務規程及び受託契約準則を届出制から許可制へ変更
(11)商品取引責任準備金制度の法定等

衆議院における附帯決議
(1)最近における商品取引の実態にかんがみ、商品取引所のあり方について根本的検討を加えること
(2)経済の実情に対応し、上場商品の適格性について再検討すること
(3)過当投機の抑制及び委託者の保護について、さらに万全の対策を講ずること

【参考】全国商品取引員協会連合会(全協連=現在の日本商品先物取引協会)発行の「全協連20年のあゆみ」から抜粋、一部数字等を手直ししました。

スポンサーサイト



商品取引所業界戦後史(1)~金上場時までの歩み

序文

日本の商品取引所制度は、江戸時代以来280年の年輪を経て構築された世界に冠たる制度である。
世界的にみれば1531年、ベルギーのアントワープで、世界で最初の商品取引所が設立されたとされている。
現在では米国や中国の発展が目ざましいが、これらは日本の制度もかなり参考にして発展したといわれている。

第二次世界大戦後の日本では、昭和25年(1950年)8月5日の商品取引所法公布により各地に商品先物取引所が設立されたが、現在は3カ所のみと減少の一途を辿っている。

商品取引所は、マックス・ウェーバーの言葉を借りれば「社会組織がどう変わろうとも厳密な社会主義的なものとならないかぎり、どうしても欠くことのできない制度の一つ」で、時に消長はあっても、ほとんど中断されることなく有効に機能してきた。

日本では、明治維新の混乱期のごく一時期と、第二次世界大戦の戦中戦後の統制時代を除き、つねに経済の繁栄を担い機能してきた。

戦後日本の商品取引所業界の歩み

大戦後の日本の商品取引所は、昭和24年、諸物資の統制撤廃が進行する中で、GHQの「大阪綿業取引所設立に関する提案の件」と題する文書により促され、翌年8月の商品取引所法制定により、まず大阪化学繊維取引所が設立された。

続いて昭和26年前半にかけて繊維、繭糸関係の各取引所設立され、翌27年前半には砂糖、ゴムの各取引所が、後半には各穀物取引所がそれぞれ設立された。以下、その後を年代別に追ってみる。

【草創期】(昭和25年~29年)
(1)商品取引所法公布(25.8.5)により、各商品取引所が相次ぎ設立される。
(2)商品外務員制度の導入(27.4.12)により、「専業型商品仲買人」が発生。
(3)商品取引所の設立について、登録制から許可制となる(29.5.10)。

【第1次発展期】(昭和30年~39年)
(1)神武景気・岩戸景気の波に乗り、専業型商品仲買人の規模、数とも拡大し、商品先物取引が全国に拡大普及する。
(2)単品商品仲買人が複数商品の商品仲買人へと転換し、業容の拡大が進行する。

【第1次調整期】(昭和40年~45年)
(1)昭和30年代の拡大成長の歪み是正のため、主務省局長通達による「全国的凍結規制」が行われ、調整期に入る。
(2)調整期に対応し、全国の商品仲買人が結束して「全仲連」を結成(40.9.27)する。
(3)委託者保護を中心とする商品取引所法の大幅改正が行われる(42.7.29公布)。
(4)改正法により、受託業務が登録制から許可制となり、従来の商品仲買人が「商品取引員」へと脱皮する前の、3年間の経過期間内に、いわゆる「許可前夜の混乱」が惹起する。

【第2次発展期】(昭和46年~50年)
(1)改正法に基づく商品取引員が誕生(46.1.25)し、秩序が回復する。全仲連が「全協連」と改称(46.1.27)。
(2)秩序の回復により、アウトロー達の香港等海外への脱出が始まり、東南アジア一円で日本商品の賭博的先物取引が発生する。
(3)ニクソンショック(46.8.15)による経済のフロート化や、世界的過剰流動性(46年~48年)、世界的異常気象(48年春~秋)、及び第1次石油ショック(48.10.25)による狂乱物価で商品取引所の出来高が急増する。
(4)金の輸入自由化により、金の私設市場が発生→ブラック市場化する。
(5)商品取引所法の大幅改正(50.7.15)により、商品取引所制度が一段と整備される。
(6)この間、全国商品取引業厚生年金基金の設置、共同事業委員会の設置、商品取引受託債務補償基金協会の設置等で全協連の体質強化と業界の体制整備が進む。

【第2次調整期】(昭和51年~55年)
(1)毛糸等既上場商品の「上場廃止論」が沸騰する一方で、合板、豚肉、大豆三品、金等の新しい商品の取引所設置気運が台頭。
(2)金ブラック市場が社会問題化する中で、内閣法務局が商品取引所法第8条の解釈を変更(55.4.26)、ブラック的私設市場が野放しとなり、先物取引の混乱が拡大する。
(3)金の私設市場の締め出し気運が高まる中で、期を同じくして香港商品取引所が金を上場(55.8.19)したため、ブラック的金私設市場業者が香港市場関係金業者へと変身。先物取引の混乱が一段と拡大。公設商品取引所の出来高が停滞。
(4)金の私設市場・香港関係金業者の悪質取引一掃を目指し、商品取引所法に基づく公設の金取引所設置気運が高まる。

【本格的構造改善期】(昭和56年~60年)
(1)待望の金新規上場が実現(57.3.23東京金取引所開所)し、先物取引新時代への認識が高まる。
(2)金の上場を契機に、主務省の行政も、従来の不拡大姿勢から積極的育成姿勢へと転換。併せて本格的構造改革へと動き出す。
(3)国際化の進展と先物取引新時代の認識の高揚で、公設商品先物市場の整備(取引所の統合合併等が進行し始める)
(4)金、銀、白金の上場により私設市場取引が後退、また「海外先物取引受託法」の制定(58.1.15施行)により、香港等海外商品先物市場に係る先物取引が、それぞれ後退し始める。

【参考】全国商品取引員協会連合会(全協連=現在の日本商品先物取引協会)発行の「全協連20年のあゆみ」から抜粋、一部数字等を手直ししました。

原材料の価格変動に悩む企業へ~先物取引を行うメリットとは?(1)

経営リスクの回避・軽減に有効

あらゆる金融商品は大体において一般個人の視点から解説されるものが多いが、今回は商品先物取引について企業が参加するメリットを紹介したい。
まず、企業は規模に関係なく日々様々なリスクに直面している。例を挙げると

・取引先の倒産により売掛債権の回収不能リスク
・規制強化などによる対応コストの負担増リスク
・法令違反などによる法的リスク
・風評リスク
・為替や金利の変動によるリスク
など、経営を圧迫するリスクが多々存在する。

こうしたリスクに対し、事業分散、法令順守強化、損害保険の活用、金融商品の活用などを利用してリスクを回避または軽減することを「リスクヘッジ」、そのために行う経営管理を「リスク管理」という。
近年石油、金属、農産物など原材料価格の変動幅が著しく拡大している。資源輸入国の日本にとって、これらの価格高騰は事業経営に大きな影響を与えるが、資源価格が急落する状況でもライバル企業との価格競争や納品先からの値下げ圧力で、厳しい状況はそれほど改善されるわけではない。こうした価格変動リスクに、商品先物取引はひとつの有効な手段となる。

商品先物取引とは、ある商品を「いま」決めた値段で「将来」の一定時期に売買する契約のことをいう。先物取引の特徴は、品物と現金を交換せずに取引を終えることができることである。これを差金決済と呼ぶが、もちろん現物の受渡しで決済することも可能である。

一般の事業会社が商品先物取引を始めるには、商品先物会社に取引口座を開設しなければならない。商品先物取引は商品取引所を通じて行われるが、貴金属や石油など工業品は「東京工業品取引所」、農産物は「東京穀物商品取引所」で取引されている。株式と同じく事業会社が直接取引所に注文を出すことは出来ず、取引所へ注文をつなぐ資格を持つ商品先物会社を通じて売り買いの注文を出すことになる。

商品先物取引の差金決済機能を利用すると、契約当初の価格と決済時点の価格の差額を受け払いして取引を終えることが可能で、いま現在持ち合わせていない商品を売ったり、現物を引き取る意思のない商品を買ったりして、価格変動リスクを回避する「ヘッジ取引」を行うのである。(続)

【参考】価格変動リスクから会社を守る(日本商品先物振興協会・編)

先物取引市場の歴史・東京編 (1)

東京米穀取引所の誕生

東京米穀商品取引所の起源は、現在東京穀物商品取引所のある日本橋蛎殻町に設立された「中外商行会社」にまで遡る。明治7年(1874)8月、林麒一郎ら3名が発起人となり、米の先物取引を行いたいと政府に申請した。政府はこれを容認し、米の限月売買が開始された。

これに先立ち設立された貿易商社は明治4年(1871)年兜町に移転し、東京商社と改称して、現在の東京証券取引所が建つ場所で米穀の先物取引を行っていたが、鎧河岸をはさんで両社が対峙する形となったのである。
東京商社は三井、小野、島田の三豪商を始め富商を網羅した組織であったので、これと比較して中外商行会社は規模的に見劣りしたかもしれないが、営業面では東京商社よりも好成績を上げていた。

明治9年(1876)8月、米商会所条例が発布され、東京商社は東京兜町米商会所に、中外商行会社は東京蠣殻町米商会所に再編され、10月から各々取引を開始した。兜町米商会所の初代頭取には三井高朗が就いたが、実際の運営には副頭取の竹中邦香があたっていた。また、蠣殻町米商会所の頭取には川上助八郎が就いたが、実力は副頭取の米倉一平が上回っていた。

両社の営業実績については「着実なる商は兜町にあれども活発なる取引は蠣殻町の方なりとて各々相応に繁昌し蠣殻町の会所は株主に向けて年4割に当たる程の利益配当をなし、兜町の会所とても年2割5分を下らざりき」(明治21年8月1日、東京日日)と報道されている。

明治16年(1883)、両会所は鎧河岸をはさんで営業することはお互いの利益にならないとして合併の機運が起こり、同年5月政府の許可を経て合併した。その際名称を東京米会所と改めた。

明治20年(1887)5月、取引所条例が発布された。この条例は通称「ブールス条例」と呼ばれたものだが、ヨーロッパの制度を直訳的に導入した色彩が濃く、それを日本の取引所に適用しようとしたため、当時の日本の取引には適さないとして業界の強い反対にあい、実施には至らなかった。その後明治26年(1893)3月、米会所条例とブールス条例の2つを総合して商品及び株式の両方を包括した「取引所法」が発布された。

東京米商会所はこれにより東京米穀取引所に再編成され、営業を継承することとし10月1日に開業した。(続く)

【引用】東京穀物商品取引所資料

戦後の取引所変遷史~第3章

昭和30年代、大衆化時代の到来へ

昭和20年代は、小豆、人絹糸の買占め騒動など大口投資家による仕手戦が展開され、商品ブームの先鞭をつけた。
29年には商取法改正があり、商品取引所の設立が登録制から許可制に変更された。

昭和32年には賀集発言による「化繊取無用論」、33年にはホクレンは小豆をはじめとする穀類の一手集荷・一手販売という「共販態勢」を敷いて「穀物取引所不要論」を唱えた。だがこれらの試練を克服し、経済界において取引所の地位を確立することとなった。

昭和36年あたりから38年までは、商品先物取引における「成長期」ととらえることができる。
小豆・生糸・黒糖・人絹糸・毛糸と全国各地の取引所で仕手戦が頻発し、折りからの株ブームもあって商品相場が大衆の間でブームになった。それまで当業者中心であった市場の規模が拡大して仲買店(現在の商品先物会社)も大衆の注文を扱う専業者が多くなった。

梶山季之の小説「赤いダイヤ」が映画化され、大衆化がより一層顕著になり、専業仲買店が積極的に企業化を促進した。

ところが39年あたりから穀取における専業仲買店が企業化に失敗し倒産を続出させ、社会問題化した。九州と東京ではマスコミの指弾を浴びた。また凶作による小豆相場の異常高騰で立会不能となり、一時停止となった。
一方繊維市場では人絹糸が買い占められ取引所機能がマヒされる危険に陥ってしまい、40年には商品取引所法の改正機運が高まっていった。

(引用・参考文献)日本経済を創る人々(経済ルック出版)

上場商品のマメ知識 【金】

品位は24分比で表示

金は日本の商品先物取引で最も人気の高い商品で、その品位は24分比で表示される。したがって24金とは、金の含有率が24に対して24ということで、金純度は99.99%以上を指す。この金地金を「フォーナイン」と呼ぶ。

純金の重さを表す単位は日本では「グラム」だが、欧米では「トロイオンス」が一般的である(1トロイオンスは31.1035グラム)。

金地金の流通形態は1キログラム、500グラムのバー(延べ棒)が主体で、500グラム未満のバーだと「スモールバー・チャージ」といってバーを小さくする手数料が必要となる。
したがって資金に余裕があれば500グラム以上を所有すると効率がいい。

少額投資を希望するのであれば、金貨をお勧めする。地金型金貨の場合はそれぞれトロイオンスで1、2分の1、4分の1、10分の1という種類の金貨が発行されている。

金貨は購入する際、買い手側に「プレミアム」という鋳造コストがかかるが、売却の時は買取価格に上乗せされるので結局相殺される。

東京工業品取引所に上場されている金は取引対象が「フォーナイン」であり、取引や受渡しの単位は1キログラムとなっている。一般個人の取引は「1グラム当たり何円動いたか」で損益が決まってくるが、取引単位がキログラムなので実際はその1000倍(1キログラム=1000グラム)の損益となるわけである。

その他金の取引要綱は、取引所のホームページへ。
http://www.tocom.or.jp/jp/guide/youkou/gold/index.html

戦後の取引所変遷史~第2章

戦後は米穀でなく繊維から

証券取引所については昭和23年4月に、GHQアダムス証券担当官から「取引所再開に関する三原則」が示されたが、これが日本にとって難題であった。三原則は

(1)取引所における取引は、すべて行われた順位に従い、時間的に記録されること。(委託者保護の目的による取引時刻の明示という意)

(2)会員は、上場銘柄の取引については一定の例外を除き、すべて取引所においてこれを行うこと。(店頭売買を止めさせる意)

(3)先物取引を行わないこと

(1)、(2)については特に問題がなかった。
しかし(3)については、長期清算取引、短期清算取引に慣れてきただけに、これを否定されることは致命的と言えた。

日本は徳川時代の米売買から、先物取引の効用と投資の妙味を知り尽くしてきただけに無理もなかったが、当時の証券業界は「どんな形にせよ取引所の再開が最優先である」という考え方が支配的であった。
結局上記の三原則厳守の誓約書を提出し、5月に東京・大阪・名古屋開設のGHQ認可を得たのである。

一方、商品取引所復活の流れをたどると、まず戦前の昭和13年末には全国で27カ所の商品取引所があり、綿花、綿糸、綿布、人絹糸、乾繭、生糸、米、雑穀、砂糖、肥料などが上場されていた。
それ以前には米穀取引所が19カ所、正米市場は21カ所にまで広がっていたが、これらは「日本米穀株式会社」に統合されていた。

これら米穀の市場再開はとても望み得ない客観情勢であったことから、戦後における商品取引所の復活は、まず繊維主体に世論が盛り上がっていった。

(引用・参考文献)日本経済を創る人々(経済ルック出版)

過去の記事 >>